2009年06月09日

中国のこと その1-天安門事件-

中国のこと その1-天安門事件-6月4日は中国天安門事件からちょうど20年。
今日は少し硬い話かもしれませんが、当事、僕にとっては衝撃的な事件でした。

さて日本が高度経済成長を謳歌していた60年代、70年代、僕の青春の萌芽期のことです。
中国には文化大革命の嵐が吹き荒れていました。
いまではもう文化大革命をご存じない方も多いかも知れません。
政策的(大躍進運動)に失敗した毛沢東が政治生命を回復しようとして仕組んだものでその本質は中国共産党内部の権力闘争との見方が今では一般的になりましたが、中国に10年間に及ぶ停滞と文化的荒廃をもたらした政治運動のことです。

現在の中国経済の発展は76年の毛沢東の死によってその後ろ盾をなくした文化大革命の首謀者4人組が失脚し、文化大革命が終焉した後に始まりました。
それは77年に実権を握った鄧小平が始めた改革解放政策によりもたらされたものです。
スタートは78年のことです。
改革開放政策とは、政治的には共産党の一党支配を堅持したまま、経済的を自由な市場経済原理に委ねていくというものです。
「英知をはかり豊かになれるものからなっていけ。」
と鄧小平は言いました。

73年の田中角栄訪中、日中平和友好条約締結時までの中国の姿はといえば当事、隣の国でありながら厚いベールに包まれていて中が見えないままでした。
中国と言って思い浮かぶのは、国中がカーキー色の国民服に身を包み、中国共産党の赤旗以外にはおよそ色彩と言うもののないくすんだ街角の映像と毛沢東の顔でした。
今の北朝鮮に似た印象です。
僕らの青年時代、そういった映像以外には見たことがなく、中国(国交回復までの日本では中国とは現在の台湾のことでした。中国共産党政府は公式に認められていなかったためマスコミは中共と呼んでいました。)は得体の知れない国家というイメージが今も強く脳裏に焼きついています。
現実に文化大革命では文化人、毛沢東に批判的な政治家・共産党員、一般市民が数千万人の規模で粛清されたようです。

78年、鄧小平は計画経済がもたらした教条主義により疲弊した国家経済を脱しようと改革開放政策に舵をきりかえました。
「黒い猫でも、白い猫でも、鼠を捕るのが良い猫だ」と彼は講話し、守旧派を駆逐していきました。
はじめはゆっくりながら外資と技術を取り込み経済の基盤が形作られます。
一方で改革開放がもたらした市場経済原理は海外先進国の経済のみならず政治・文化をも招き入れる結果となります。
これらに触発され、知識人、主に学生たちの間には民主化を求める声が次第に強まり、大きな波となり、ついには89年6月の天安門のデモとなっていく訳です。
改革開放宣言からちょうど10年のことでした。
しかしここで鄧小平は民主化を進めようとした胡耀邦国家主席を失脚させ民主化にストップをかけます。
彼の開放政策とは国家あってのものでしかなかったからです。
6月4日、天安門に終結した学生たちを銃と戦車をもって弾圧。
これが天安門事件です。



Posted by 風街ろまん at 01:13│Comments(0)
 
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